昭和47年4月9日 朝の御理解        (末永信太郎)


御理解第67節
 何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。


 何事もくぎづきではない、と。例えば、今、沢山のお金を持っておる人であっても、いつまでも金持ちとは限ってはいない。今、例えば貧乏しておっても、いつまでも貧乏しなければならんと決まっておるのではない。何事もくぎづけではないからであります。いつも動いておる。ね。
 そこで、信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ、と。信心をめいめいにしておるということは、信心をバラバラにしておるという意味じゃないのですよね。各自がしっかり信心をしとらなければいけない、と。めいめいとは、ここでもちろん、各自と書いてありますけれども。
 一人ひとりがしっかり信心しておらねば、長う続かぬ、と。私は、信心が長う続かねばならん。だから、信心はただ何十年続けてしておるというのでは、またつまらない。ね、長ければ長いだけの信心が身に付いて行かなければ、長いだけでは値打ちはない。ね。
 信心をすれば、一年一年有り難うなって来ると仰せられるように、長う続けば続くほど、有り難うなって行かなければならない。だから、今、分からんからと言うて、今、出けていないからと言うて、それこそくぎづけではないのであるから、ね、その線に添うて、信心とはけっきょく有り難うならせて頂くけいこだという、そういう一つの願いというか、焦点を持って一年一年有り難うなって行かなければいけない。ね。
 そういう意味で、長う続かにゃいけない、と。私は最近、大変、自分で自分の心の中に嬉しゅう思うておることがあるのです。最近、まあ、私が口を開けば言っておる、最近の合楽の信心を、まあ、語るならば、あの、黙って治めるということほどしに素晴らしいことはないて。現在の合楽の信心は、これは最高の信心だということを申しておりますがね、私はこれを言うようになってからこちら、特にそれを感ずるのですけれども、有り難いというものが、何かこう日々身に付いて行っておるような気がするんです。
 で、そのことをね、今朝から私はお礼を申させて頂いておりましたら、この、「明」という字ですね、明るいという字、日を書いて月という字の日というところが、こう潰れているんですよね。こう、そして、それがやっぱ明という字に読めれよる。日というのが、こう潰れておる。ね。
 私はもう、日に日に有り難うならせて頂いておるように、その、まあ、感じるけれどもです、まあ、お互いね、信心は一年一年有り難うなると仰るが、はたして去年と今年はどれだけ有り難うなっているだろうか、と。何かある度に、機会あるごとにそれを感ずるですね、自分が信心が落ちておるとか、いわゆる、信心はくぎづけではないのですから、落ちたり(すんだり)やっぱりしておる訳なんです。で、一年一年有り難うなって行くということは、ね、月々有り難うなって行かなきゃいけないのです、やはり。
 言うならば、日々有り難うなって行かなきゃならないのです。そこで、私は今日はそのことをお礼を申させて頂いたらこれを頂いて、明るくなるということ、有り難くなるということなんですね。そこでその、まあ、日々刻々とまでは行かんでもです、一月なら一月をふり返って見た時にです、おかげを頂いとるなあ、と感じれれるぐらいの信心は頂かなければならない。
 今、私が感じておるのは、そのくらいのおかげを受けておるということだと思うた。月々締めくくって行くと、月々、例えばこう、グラフ用紙にでも書くなら、こう、はっきり分かるような感じがする。ね。それがどういうところに、その、でそうかと言うとです、日々起きてくる様々な問題。ね。
 もう、そりゃちょっとしたことから大きいこと、様々ありますけれどもです。その様々なことがです、もう一切黙って祈らせて頂くことによってです、それこそ円く円くおかげになって行くという事実に、日々会っておるわけ、直面しておる訳です。
 これは、まあ、大変なことだなあ、素晴らしいことだな、と有り難うなって行っとる訳です。もう、普通で言うなら、このぐらいなことは言うのが当たり前というなことでもです。昨日もある方がここでお届けをされるんです。嫁が電話をかけておりましたて、そしたら、えらいこう、(つっけんど?)に電話をかけておるから、電話の後に、人にものを頼むのだから、貴方のごとそげん、つっけんどに言うと、いけんよと言うて、まあ、静かに注意をした、と。
 したら、嫁もそこが分かったようで、次の電話はもっとらっとかけよったと言うておられました。私はここで聞きながら、もう、それを言わずに、あの、おったらもっと素晴らしいおかげになるだろうにな。はあ、お母さんから言われたけん、その次にはもっとらっとかけよることになって来るんだ、と。
 だからね、これはもう、そんな些細なことの中にでもですね、黙って祈るということは素晴らしいことなんです。これはね、もう、いよいよ、これもう、合楽の最高の私は信心だと言っていますが。これはだから、合楽で教えを頂いておる人ではないと、ひょっとすると通用しないかも知れませんね。
 それを私、昨日ある偉いお坊さんの書かれたお書物を読ませて頂いとって、それと同じようなことが出て来とるのに驚いたんです。結局、私が取り次がせて頂いた私の心の中、私の信心の状態が取次を願う皆さんの上に、おかげになって現れて来るのですからね。これは、他の者が取り次いだって、やっぱり言うた方がよかということになって来る。ね。言うて悪いということじゃないですよ、この頃からも申しますように、三角でまとまることもありゃ、四角でまとめて行くことも良いと言うのです。
 言うて聞かせたり、または強引にということも場合にはいいのです。けれども、言わずに治めるということは、その三角でもなからなければ、四角でも、それこそ円く円くおかげを頂くということ。昨日、吉井の波多野さんが息子んところへ参りましたら、こんなに厚いその、字引を買うとった。
 ほお、こげなずいぶん高いじゃろうと言うて、ちょっと、こう開かせて頂いたら、和賀心の和という字が出て来た、平和の和という字が。だから、この和という字は、だいたい、どういう意味のもんだろうかと、一通りぐらい、ズラッといろいろ訳が書いてあった一番はじめにね、いつも親先生が仰る和ということの素晴らしいことを、私は和賀心の和とは壊れないものだと頂いておりますよね。不壊のもの、壊れないもの。
 字引にはどう書いてあるかと言うとね、まあ、分かりやすく言うと、出すぎもせねば、引っ込みすぎもせんという心だそうです。私はそれを頂いて、素晴らしいと思うたですね。和というのは、ただ円満といったようなもんだけじゃないのです。出過ぎもしなければ、引っ込みすぎもしません。ね。
 昨日の御理解の中にも出て参りますように、ある人がここで、もう黙って治めるということになったもんですから、もう、家では、もう黙っておることの修行なん。それが、ちっとやっぱ辛いのでしょうね。もう、心の中じゃブーブー言いながら黙っとるとなもんですから、それが当たり散らかす。これは、引っ込み過ぎとる訳ですね。もう、それこそ平生な心というか、もう、だからもう、それこそ挨拶もせん。
 もう、言わんで治めるとじゃから。(笑)ね。だから、言わんで治めるということは、決してそんなことじゃない。ね。同じ、例えば使用人の方が雨降りに一生懸命働いてくれておるなら、はあ、今日はしるしかったろう、と。これは、言うのが当たり前。ほれば、もう、言わんとが、黙って治めるでもう、しるしかち思うたっちゃ言わん。そういうことじゃないから、ここの辺のところをよく考えなきゃいけない。ね。
 かと言うとです、もう、そんな些細なことであってもです、言わんで済む方がおかげのことがある。そのことをね、が、まあ、言わんで治めるということは素晴らしい。自然に起きて来てくる、自然に見る聞くすることをです、そのままを、はあ、心の中にあんなことじゃいけんなと思うたら、こちらが詫びてやる気になり、こちらが改まり、またはそれによって教えられることがあるから、改まって行くという生き方で行くならです、もう、それはそれは、もう不思議なくらいにおかげが頂くです。
 現在の今、合楽で黙って治めるということは。ね。なるほど、和賀心の和です。出すぎもせにゃ引っ込みすぎもせん、いつも平生心でおれれるということ。昨日、私が最後まで、もう終わってから、また皆さんに申しましたように、もう、今日のような御理解を説かせて頂いておるとね、心が私は空しゅうなるということを最後に申しましたよね。こんな素晴らしいことを、素晴らしいことではあればあるほど、皆がその、皆に入って行かないような気がするんです。おかげを頂くという話なら、どんどん入って行くけども、信心を分かれという話は案外入って行かない。ね。
 しかも、例えば昨日の御理解など、もう、最高のいわば信心を身に付けて行くということについて、まあ、色々お話をさせて頂いたんですね。そのことがですね、こちらが、いよいよ有り難うさえなって行けばですね、例えば、ただ聞き流しに聞いておる人でも、また早分かりをして、ああ、もう先生が言いよんなさるとは分かっとるというような人でもです、そういう人でもおかげが受けられるという話がありました。
 これは、お釈迦様が説かれた、いわゆる法華経ですね。(なんみょうほうれいげきょう)の私は、法華経の内容がそれだそうです。お釈迦様がちょうど70歳の折りだった。もう、それはそれは、もう何とも言えぬ(そう)をしておられた。もう、何とも言えん有り難そうな、いわば顔をしておられた訳です、ご様子の中から。そこで弟子達がです、今までかつて見たことのない、こんなお姿、お顔を拝んだことがないと言うて、賛嘆の声をあげたと言うのです。そこでお釈迦様にです、弟子達が、どういうお心の状態であるなら、こういうお姿になれれるのですかと言うてお伺いをしたところが、私の今の心の中のことは、お前たちに言うても分からんと仰った。ね。、それでもね、それでも聞きたい。ね。
 でも、分からんでも、まあ、聞かせて下さいと言うて、再三、三回続けてお尋ねしたけれども、お前たちでは分からんと言うて、(語意?)に出なさらなかった。そこで沢山の弟子達がです、ほとんどの多くの弟子達がです、そんなに難しいことなら、ね、聞いても聞かんでも同じだと言うて、その場を去ったと言うのです。よく、そんなところがありますね。合楽の御理解は難しか、私どんじゃ分からんなんて言う人があります。ね。その時の様子をね、その法華経の中にお釈迦様は、高慢の人は去ったと言うておられるそうですね。高慢、高慢ちきの高慢です。ね。
 お釈迦様の教えを頂きたい、頂きたいと言うて、けいこをして集まっておりながらです、もう、そげん難しかこつなら、もう、聞かんでん同じこったいと言うて、去ってしまった、と。それを、法華経の中にですね、高慢な人は去ったと言っておられる。そしてです、おもむろに口を開かれて、残ったわずかばかりの弟子達に、その自分の心の内をお話になった、その内容がです、法華経だそうです。
 皆さんご承知でしょうけれども、あの、経文が沢山ありますけれども、あれは全部御理解なんですよ。だから、ここでの御理解集は私が聖典だと言うわけなんです。ね。その時代、時代の、私の信心と神様から頂いたそのこととが一つになって現れておるのが、ここの朝の御理解です。ね。
 お釈迦様が有り難うて、有り難うて。ね。もう、それが人相に現われておった。こんなお姿を今までかつて拝んだことがなかった。そのような状態のお心の内を語ってくれ、話してくれと言われたけれども、お前達には分からんとか言われた。ね。なら、分からんごと、そげん難しかことなら、もう、聞かんでんよかと言うて去ってしまった。けれども、それでも聞きたいと言うて残った者に対してお話になったのが、いよいよ、もうお釈迦様の一番の最高の教典だと言われておりますがね、あの、法華経は。
 ね、お釈迦様はほとんどが、未来に助かりを求めておられ、いわゆる、空の中にあった訳ですけれどもね、法華経は現実に助かるということなんです。ね。そのお釈迦様のお心に宿っておった世界を、いよいよお話になった。それが法華経の内容になった、と。そこんところに書いてあるんです。仏教の言葉に声聞という言葉、声聞という、声を聞くということ。それからね、縁覚よいう。これは、どういうことかと言うと、声聞というのはね、こうして皆さんがお話を聞いて、はあ、なるほど、なるほどと言うて聞いておるだけだと言うんです。ね。それから、縁覚というのはです、早考えをする、早飲込みをする。ああ、もう、先生があげん言いよんなさるとは、もう、どうせ磨け改まれちゅうことじゃろう、ということなんです。
 まあ、そんな人があるんです。もう、親先生が仰ることなら、しゃっち、もう、和賀心時代を創るち、最近はもうそのことを言おうと思うちから、あげん色々話しござるとじゃから。と言うて、早飲込みをするのがね、縁覚と言うんです。縁はご縁の縁ですね、縁を頂くという。覚ということは、覚える。
 お釈迦様はその時点においてはです、そういうものは、悟りは開けんと言うておられたんです。そういう早飲込みをしたり、ね、まあ、聞くだけしか聞かんというな人達は、ね、仏教の悟りは開けないと言うておられたけれどもです、その日はです、その日からです、私のこの有り難うて、有り難うてたまらんような、その、それこそ人相にそれがはっきり拝まれるほどしの有り難いものを、ここに説く。これを聞くならばです、ね、そういうものも、皆助かる。
 いや、そういう者だけではない、私に(あだなす)者でも、ね、ダイバという人はお釈迦様を殺そうとした。そのダイバですらが助かると仰った。それは、私がダイバにお礼を言う心が生まれるならばと言うておられる。ね。私を憎む者がある、私を殺そうとする者がある。けれども、殺そうとするその者によって、私が一段と向上することになればです、私はそのダイバにお礼を言わなければならない。
 私がこのお礼を言う心が生まれるならば、言うならば、その憎い、私を殺そうとしたそのダイバですらも助かるんだと、お釈迦さんが説いた。なるほど、法華経は素晴らしい、言うなら御理解だなあ、教典だなと分かります。ね。そこでです、私は昨日、大変空しいということを申しましたでしょう。このような素晴らしい御理解を頂いて、皆が分かったやら分からんような顔をしておるのは、本当に残念だという意味のこと。けれども、私はこれを聞かせて頂いてです、これは、私もいよいよ、今の調子で有り難うなって行きゃです、ね、親先生と言うて願って来るなら、取り次ぐ者ならば、どういうそれが悪人であろうが、改まりがなかろうが、磨かないであろうがです、助かるんだ、と。
 私は昨日、大変嬉しゅうなったです、それで。そして、今朝からそのことを、私は神様にお礼を申させて頂いておりましたらです、いわゆる、明という字、明るいという字。その日という方が潰れておるわけですけどね。日に日にとまでは行かんでもです、月々に、月々しめて行かれるほどしに有り難うなって行きよる。これは、私が自分で感ずるです最近。ね。もう、本当に些細なこのくらいなことでも言わんで済む。
 このくらいなことではない、大きなことなら、なおさら言わんで済む。ほれは、まあ、本当にそれこそお釈迦様の境地が、段々こちらにも開けて来よるなと、昨日、私はこの本ば読ませて頂きながら思うた。ね。信心はくぎづけではない。ね。だから、ね、いつまでも貧乏しておるとも決まっておらん。それから、私が金持っとるからて、いつまでも金持つということも限っていないという意味合いだけではなくてです。
 ね、私の心の中にある、その有り難いというものがくぎづけであってはならないということ。長う続かねばならんと仰っておられるのは、長う続くということは、ね、年年歳歳、有り難うなって行かなければ、続く値打ちがない。何十年と信心を続いておるというだけでは、値打ちがない。
 一年一年有り難うなって行かなければ値打ちがない。それを、私は最近はです、もう、自分では日に日にと思うけれども、まあ、神様は月々とこう仰るわけ。ね。月々ぐらいには有り難うなって行きよると、こう、まあ、認めて下さったような感じがするんです。今日は、秋永先生のところのおばあちゃんの、三年の式年祭が、ここで11時からあります。で、昨日から色々と、まあ、準備をして。
 で、そのことも今日、お願いさせてもらいよりましたらね、あの、コショウを沢山頂くんですよね、赤いコショウ。これは、恵比須様の食料と言われております、コショウというのは。言うならば、秋永先生のことを、いつも恵比須さんというな表現で頂くんですからね。ははあ、だいぶん、コショウば食べさせられよりなさるばいな、とこう感ずるわけです。ということは、ちったイライラジガジガしござるちゅう感じですよね。昨日も奥さんがちょっとばっかり遅かったようなけんで、えらいな大きな声んしよるけん、何ごとじゃろうかと思いよったら、何ごとしよるか、いつまっでんち、あれがイライラジガジガなんですよ。
 もう、神様がね、それこそ明日は母親の言うなら式年のお祭りを仕えねばならんから、一段と信心を進めさせておこう。そこで、イライラすることでも、ジガジガすることであってもです、それを黙って治めれるような心で、今日のお祭りは奉仕させようという神様の願いがね、ははあ、あっておるなあ、と私は思いました。秋永先生に神様はコショウを食べさすとよ、と。
 だから、これはお互いが信心を進めて、なら、長う続かなければならん。もちろん、一年一年有り難うなって行かなければならんのやら、有り難うなって行くための材料というものが必ず与えられるです。だから、皆さんここんところを良うと思うとかにゃいかんです。信心しよって、どうしてこげなこつが起こって来るじゃろうかち言って、一段と良い信心をさせて頂くために起こって来るんですよ。ね。
 場合には、イライラジガジガもあろうと言うのです。けれども、最近、ね、私が申しております、それを黙って治めて行く。出過ぎもせん、もう引っ込みすぎもせん、言うならいつも平生心でおれれるという和の心を持って受けて行くというようなです、おかげを頂いて行ってこそ、初めて、ね、いよいよ有り難いという、その有り難いという心の上に現れるところのおかげは、それこそ円い円い円満なおかげ。
 もう、本当にお話にならんほどしに素晴らしいおかげになって来るんです。もう、小さい事柄で、もう驚くばかり。私はそれを日々、最近体験させて頂いてですね、もう、いよいよ、ここんところを極めて行く以外はないなと思わせて頂いております。ね。私がいよいよ有り難うなるということによってです、ね、いわば御理解でも頂かんような人でも、まあ、聞くだけの人でも、早分かりする人でも、そげなことじゃアンタおかげは受けられんばいと思うて、寂しゅうなったりしよったけれども、寂しゅうなる必要はない、私がいよいよ有り難うさえなって行きゃ、そういう人でも助かる。
 いや、善人でも悪人でも助かって行く。私に仇出すような人でも助かって行けれるほどしのです、道がこれから開けて来るなと思うてね、これは、合楽の言うならば法華経です、今日の御理解は。ね。私自身がです、ね、内容にそういう有り難いものを感じておる時に話しておるのでございますから。ね。
 今日はだから、少し意味が違いましょうけれども、何事もくぎづけではないというところをです、ね、信心はくぎづけではないという風に頂いて頂きたい。また、最後んところに、長う続かん。ね。銘々に信心をしておらねば長う続かんと仰るのは、長う続かなければならない、信心は。けれども、ただ長う続いただけではいけない。ね、長う続けば続いたほどしにです、有り難うなっておらなければ、値打ちはないという風に今日は頂いて頂きたいですね。どうぞ。